好きだった先輩に告白も出来ないまま背中を見送った三月。
自分の不甲斐なさが悔しくてヤケ食いしたあの日は、雪が降りそうなほど寒かった。
あれからいくらも経ってない気がするのに
坂道の八重桜が絶えず散りかかるのを見て、春も終わるのだと思った。









サクラチル、恋わずらい








「帰るだろ。送っててやんよ、




練習が終わって片付けも終わったテニスコート横。
すっかり着替えも済んだあたしに、同じく更衣室から出てきた赤也がそう言った。
もう何番か数え切れなくなった春風が今日は一段と強くて
ちょっと見上げた空は雲ひとつなく、うっすら色が変わり始めてる。




「ありがと、でも図書館に寄ってくからいいや。」
「大学の?またかよ。お前も物好きだな」
「あとちょっとなの。まだ明るいし、今からなら読みきれるからさ。」
「誰か先輩捉まえて借りちまえって。柳先輩とか幸村先輩ならそんくらい聞いてくれんじゃね?」




幸村先輩の名前に思わずドキッとしたけど 、赤也は気付く様子もなく、あと柳生先輩もいいかー、真田副部長はダメだろうなーなんて暢気なことを言ってる。
聞こえなかったことにして、じゃあねと背を向けると小走りに正門へ向かった。
赤也が不意に口にした名前に、風にざわざわ揺れる木みたく心が騒いで治まらなかった。








学生証を通して図書館の入り口を抜けると、真っ直ぐ地下へ続く階段を下った。
大学の中央図書館の地下は研究書庫になっていて、普段はなかなかお目にかかれない本に出会えたりする。
コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた味も素っ気もない階段を下りるにつれて、さっきまでのザワザワが治まって、代わりに別の高揚が沸きあがるのを感じていた。
 
B2フロアに降り立つと、整然と並び立つ本棚をすり抜けて駆け寄るように一冊の本を手にする。
この間見つけた大好きな小説家のデビュー作。ずっと探していたのに、もう絶版で手に入らない。
見つけた時は探していた恋人に出会ったような気分だったなぁ。
面白くて面白くて一時でも離れたくないのに、あたしは高校生で、閲覧は出来ても借りられない。
付き合えるけど結婚は出来ないって感じ?越えられない壁が切ない。
あぁ、早く大学生になりたい。


壁際に閲覧席があるけど、そこへ行くまで待ちきれない。
入庫にちょっと手間がかかる書庫は、人が少ない。ぶつかる心配もない、読みながら歩けばいい。
他に誰も読まないだろうと差し込んだしおりを手繰り寄せて頁を開くと、すぐにこの間読んだところが目に飛び込んでくる。
昂る気持ちに追われるように、目がどんどん先を追っていった。








さん?」




ページを捲った手が思わず止まる。
聞き慣れた、けれどとても久しぶりに聞く声に心臓がひとつ跳ねた。
治まったはずのザワザワが甦ってくる。
…なんという日だ、今日は。
振り向いたそこには、初めて見る、私服姿の幸村先輩が立っていた。




「ゆき、むら先輩」
「フフ、やっぱりそうか。後姿ですぐわかったよ。久しぶりだね。」
「お久しぶりです。先輩…何か調べ物ですか?」
「まあ、そんなところかな。君こそどうしたんだい?大学の図書館に来るなんて。」
「よく来るんです。読みたい本もあるし、何か雰囲気が好きで。」
「そう。」




言いながら先輩が柔らかく微笑む。
…懐かしいな、先輩のこの顔。
部員を見つめてるとき、励ましてくれるとき、先輩たちと話してるとき、何度も盗み見た、優しい瞳。
この瞳が自分だけを映せばいいのになんて叶わない願いを抱えて、でも結局何も言うことが出来なくて。
女の子に囲まれる先輩を遠くから眺めながら、涙を飲んだ卒業式はまだ記憶に新しい。




「先輩、変わりませんね。」
「君もね。…それかい?読みたい本って。」
「ハイ、何回かここに来て読んでるんです。あとちょっとで読み終わりそうなんですけど…」




そう言いながらちらりと時計を見る。
本当は少し遅くなっても今日で読みきるつもりだったけど、どうしよう。
…先輩はもう調べ物は終わったのかな。
駅まで一緒に帰りませんか、なんて誘ったら困らせるかな。
本を掴む指にキュッと力を込めて胸に抱えると、先輩がクスッと笑って口を開いた。




「俺が借りてあげようか。」
「えっ?」
「随分と気に入ってる本みたいだしね。そうすれば、家で読めるだろう?」
「はい。でも、いいんですか?」
「俺は構わないよ。貸してごらん。」




そう言ってスラリと伸びてきた腕に本を預ける。
促されるままにしおりも手渡すと、大きな手が器用にページを繰りながらしおりを受け取って、あたしが開いてたところに挟みこむ。
静かにその手でパタンと閉じられた本。色あせた背表紙とまだ鮮やかな色を残す表紙が、絶妙なコントラストで幸村先輩の長い指をくっきりと浮かび上がらせた。
足元に置かれた黒の鞄を拾って歩く背中は1本筋が通ったように真っ直ぐで、思わずあたしも背中に力を入れて姿勢を正したくなる。
何も言わなくても背中で尊敬を勝ち取る。
幸村先輩はいつもそうだった。




「あ、でも先輩の調べ物は」
「もう終わったから大丈夫だよ。」




振り返りもせずそう言うと、スタスタと書庫の出口へ向かって歩いていく。
その背中を追いかけながら、胸がドキドキと弾んでくるのを抑えられなかった。








「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」




図書館を出たところで、初めて出庫処理をされた私の恋人が幸村先輩から手渡される。
外はもう随分薄暗くなっていたけれど、先輩の差し出すその本は静かに内から光を放って見えるようだった。
両手を出して大切に大切に受け取った。
そろりとその表紙を指でなぞる。ザラリとした感触が指から伝わって体の芯を震わせる。
ずしりと重いその本に、体の底から言い知れない嬉しさと感動が込み上げてくる。
それはただこの本を家で読めるというだけじゃなくて。この本を借りてくれたのが幸村先輩だというその経緯が何よりもあたしの心を弾ませているのだとわかっていた。
本をギュッと胸に抱いて、感情に動かされるまま緩んでくる頬を、唇を、一生懸命引き締めて、ガバッと頭を下げた。




「ホントに、ホントにありがとうございます。嬉しいです。」
「はは、そんなに感謝されると困るな。」




俺にも下心あってのことだし、と。
 
先輩はそう言ったのだと思う。
降り積もった花びらを巻き上げるほどの風の音に紛れて、はっきりと聞き取れなかった。
顔を上げたあたしの方へ、幸村先輩がゆっくりと近づいてくる。
慌てて背けた視線、うようよ彷徨った挙句、つま先の辺りに落ちる。
あたしのつま先と、先輩のつま先、今にもぶつかりそうで
きっと顔を上げれば、呼吸が触れてしまうくらい近い。
 
突然耳に触れた先輩の指に吃驚して、肩がビクッて大きく揺れてしまった。
なに?なに?これは、どうゆうことなの?
心臓の音が大きすぎる。先輩に聞こえちゃう。焦れば焦るほど、顔にも熱が上がってきて、耳もジリジリ熱くなる。
ダメだ、もう、落としたままの視線を拾い上げられない。




「…この本を返すときも、俺のところへ来てくれるね。」




こくこくこく
顔を上げられないからひたすら首を縦に振って
そんなあたしを見下ろして、先輩が小さく笑ったようだった。




「いい子だ」




風でめちゃくちゃになったあたしの髪を、手櫛で綺麗に直してくれて、
それでもその、少しひんやりとした先輩の指はあたしの髪に触れたままで
子ども扱いをされているのかと盗み見れば、途端に捉まえられてしまった視線
そこには今までに見たことがないような大人の顔をした先輩がいて
 
いきが、つまる。




「せん、ぱい」




指が頬に滑るように下りてきて、見つめる瞳が揺れる。
心臓が煩いくらいにドクドクいってて、顔に熱が上ってくるのがわかる。
暗がりでもわかるくら真っ赤になったあたしを見て、先輩がフッと笑った。




刹那


睫毛が触れそうなほど近くに迫る先輩の顔


驚いて吸い込みかけた息が、止まる


熱い息に飲み込まれる




何が起きたのか、理解出来なかった。
でも次の瞬間あたしは先輩を突き飛ばして、衝動的に走り出していた。
先輩に背を向けて図書館前の階段を一気に下って大学の敷地を疾走して、とにかく逃げた。
からかわれているんだと思った。そうじゃなきゃ、何かの罰ゲームとか。
だっておかしい、先輩があたしに、キスするなんて
そんなこと、ありえないもの


土曜の夕方だから?授業中なんだろうか。大学の中に人はほとんどいなくて、その中をただひたすらに走る。
後ろから足音が聞こえるような気がして怖かった。
追いかけられているのだとしても、追いかけて来ないのだとしても、怖かった。


校舎と校舎の間を走って、目に映った渡り廊下を突っ切るように左に曲がる。
駅に向かおうとか全然考えてなかった。どこでもいいから逃げ出したかった。
古い校舎の柱と柱に囲まれた、石畳の小さな中庭に出たところで後ろから腕を掴まれた。
振り返る間もなく強く腕を引かれて、ドシンと背中が何かにぶつかって息が一瞬詰まる。
けれど胸がドクンと高鳴ったのは、多分その所為だけじゃなくて
後ろから抱え込まれるように回された腕が、きつくあたしを抱きしめてきたから。




「どうして、逃げるの?」




苦しくて肩で息をするあたしとは裏腹に、少しも乱れない声があたしの耳に真っ直ぐ降りてくる。
その声色はほんの少しだけ怒っているようで、思わずビクリと肩が震えた。
先輩の表情を窺うことは出来ない。ただ抱きしめる腕が熱くて、強くて、胸が苦しい。
抜け出そうともがいてもピクリとも動かない。力強い、男の人の腕。


どうして、なんてあたしが聞きたい。
どうして先輩はあたしにキスなんてしたの?
こんな、平凡で取り得もない、先輩をただ見てるだけしか出来ないあたしなんかに




「あ、あたしなんかからかって、面白いですか」
「何?」
「はなして、ください…」




言いながら喉が焼け付きそうになる。
どうして先輩はここまでするんだろう。
あたしは先輩に釣り合うような女の子じゃない。
容姿だって成績だって人並みかそれ以下で、運動だって大して出来るわけじゃない。
告白なんて出来るはずがなかった。
一緒に帰りませんか、の一言すら口に出来ない小心者。
こんなちっぽけなあたしが、密かに先輩を慕う気持ちくらいそっとしておいて欲しかったのに。




「…からかってないよ」
「…う、そ」
「嘘じゃない、キミが好きだ。」




ギュッと痛いほどにあたしを抱きしめて先輩が呟いた。
頭を擡げてあたしの耳元で空気を震わせるその声が、キリキリとあたしの胸を締め付ける。
胃の辺りがきゅうっと萎んで、焼け付いた喉からは掠れた吐息しか零れない。
どうしたらいいかわからなくて、全身を強張らせて首を振るあたしの頭の上で先輩が溜め息を零す。




「返事は聞かせてくれないつもりかい?」




寂しそうに響く声音。
それでも先輩はあたしを離そうとしない。
やっぱりまだ信じられなくて、あたしの気持ちを知られていたなら尚更からかわれてると思う気持ちは拭えない。
それなのに、背中に感じる先輩の鼓動がほんの少しだけ速いことに期待してしまうあたしはホントに馬鹿だ
左手に握り締めた小説が目に映って、俯いたまま震える唇を開いた。




「…あ、たし、嬉しかったんです、今日…この本、借りられて。…幸村、先輩が借りてくれ、たことが」


「先輩が、少しでもあたしを、気に掛けてくれたことが…泣きたいくらい、嬉し、くって」


「だから、だからもうっ…」




十分ですと言おうとした言葉は音になることなく先輩の唇に飲み込まれた。
ぐるりと正面を向かされて先輩の顔が見えたのはほんの一瞬で、焦点が合わないほど近付いた綺麗な顔に思わず瞳を固く閉じた。
強く押し付けられた唇、すぐに離されて今度はそっと柔らかく触れてくる。
強張って震えるあたしの唇に繰り返し繰り返し柔らかく
上唇と下唇、交互に挟み込んで愛おしむように
深く長く合わされた唇、苦しさに息をしようと口を開けば差し入れられる舌。唾液が混じる音がして熱が上がる。


膝の力が抜けてガクッと崩れそうになったあたしを、先輩の両腕が抱き止める。
握り締めてたはずの鞄も本もいつの間にか地面に落ちてて、空っぽになった両手で先輩のシャツを握り締めた。
目をギュッと瞑っていたせいで霞んだ視界の中で、先輩が微笑んでる。
誰よりも前を行く、何もかも悟ったようなあの瞳で。




「…本気だって、解ったかい?」
「先、輩…ホントに?」
「まだ疑うならもっとするけど…どうする?」




少し悪戯っぽい瞳で見返して、そんなことを口にする。
…ホントにこれは夢じゃなくて、冗談でもなくて…?
優しく、でも力強く抱きしめてくる先輩の腕に思わず涙が滲んできた。




「あぁ、ホントにキミは泣き虫だね。」
「だって、夢にも思わなかった、から」




先輩は困ったように笑って、顔を寄せると唇で涙を掬った。
吃驚して目を見開くと、息が触れ合うくらいの距離で先輩がクスクスと笑いを零す。
さっきからドキドキしっぱなしで心臓は今にも壊れそうなのに、先輩は余裕の表情でなんだか悔しい。
身を捩って腕から抜け出そうともがくと、抱きしめてくる腕はますます強くなる。




「聞かせてもらってないな、返事。」
「えっ」
「俺のこと、どう思ってる?」




そんなのもうとっくに知ってる筈なのに、先輩は真剣な瞳であたしを見下ろして腕を放してくれない。
ドキンと胸が一つ高鳴って、その目を見ていられなくなる。
腕を突っ張って体を離そうとしても限界があって、顔を背けたままあたしは体を震わせる。









突然呼ばれた名前に体がビクッと反応する。
そろそろと視線だけそっちへ向けると、先輩はちょっと怒ったようだった。




「君はいつでも俺と正面から向き合おうとしないね。」
「せ、先輩?」
「遠くから何か言いたげな視線を向けるくせに、近づくと視線を逸らして逃げ出す。…俺が気付いていないとでも思った?」
「あの、」
「…今までは優しい先輩で居続けようと思って我慢してきたけど、流石に今日は許せないな。」




まるで試合中に相手選手を見返すような鋭い瞳が突き刺さる。
体がますます震えて、先輩の胸に押し当てて突っ張った腕が力をなくして緩んでしまう。
逃げ出したい。
でも、もう逃げ出せない。




「正直に言えば送って行ってあげる。けど、いつまでも強情張ってるなら…今日は帰れる保証はないよ。」




今まであたしは、この真っ直ぐで大きな想いを受け止めるだけの自信がなかった。
あたしはちっぽけで何の力もない代わりに、一切の責任から解放されていた。
この人に見合うだけのものは何一つない、けれど遠くから見ている分にはそれで構わなかった。
今あたしに向けられたその想いを受け入れる言葉を口にすれば、その瞬間からあたしの周りは一変してしまう。
それが怖い。けれど
今、空っぽのあたしの手は、失うものは何もない。他に掴みたいものを思いつかない。
このシャツ以外に。この大きな背中以外に、何も




「好き、です。」




手を広げて体いっぱいで先輩を抱きしめる。
抱きしめ返してくれた先輩の肩越しに、繰り返し舞い落ちる八重桜の花びらが見える。
枝の先に小さく柔らかな緑が膨らんでいる。
終わりだと思っていた晩春に、初夏へと続く息吹を見つけた。




…end



【Postscript】


今年は桜がとてもきれいで、めいっぱい堪能できました。
そして満開になってからはいい天気が続き、強く風が吹いた日にはまるで降るような花びらが。
基本的には普通の桜が好きですが、八重桜も色の薄いのは好きです。
この小説のモデルにした坂道は、白やピンクの八重桜がずっと植わっていて、特に夜が綺麗なんですよ。
夜の八重桜、是非一度お試しを。
2009.04.26