どこが好き?って聞かれたらきっとまだ答えられない


けれどあたしたちは、今ホンモノの恋人同士、です。










手のひらから一滴








すっかり春らしくなった、三月の終わりの日曜日。
よく晴れた日ざしに照らされて、あたしは久しぶりに中学校に足を運んだ。
この間卒業したばかりだって言うのに、なんだかもう懐かしい気がする。
ちらほらと桜も咲き始めた六角中の片隅に、インパクト音が高く響いてる。
テニスコートで踊る二色のジャージを見ながら、あたしは木の下に膝を抱えて座った。




「サエさん、そこだ!いっけー!!」
「うわ!跡部〜負けんじゃねーぞっっ!」




両チームの歓声が行きかう中を、佐伯が楽しそうに笑いながらボールを追いかける。
それを見ながら、あたしも思わず小さく笑う。
ホント、佐伯って楽しそうにテニスするよね。
テニスをすることが好きで好きでしょうがないって感じ。


好きだって言われて一ヵ月。
好きだって言って二週間。
少しずつ少しずつ、佐伯の近くにいることに慣れてきた。
佐伯に「恋人」扱いされることにも慣れてきた。
だから今日も、テニスの試合観戦なんて苦手だけどこうして観に来てる。
…だって未だにルールがよくわかんないんだよ、テニス。




「渋い顔しとるねぇ」
「えっ?」




いきなり声をかけられて驚いた。
見上げると、眼鏡をかけた背の高い男の子が、いつの間にかあたしの隣に来ていて。
よっこらしょと言いながら、そのままそこに腰掛ける。
…この色のジャージは、相手のチームの人だと思うんだけど




「今日は練習試合言うてもOB同士の遊びみたいなモンやし、楽に見てたらええよ。」
「は、ぁ?あたしは別にそんなつもりじゃ…」
「そうなん?ものっそキツイ顔でゲーム見とったから、うちの跡部に何や恨みでもあるんかと思うたよ。」




前科モンやからなぁと言いながらその人がケラケラと笑った。
…「あとべ」というのは、佐伯の対戦相手のことかな。
そう言えばさっき誰かがそんなこと言ってたかも。大して見ていなかったんだけど(失礼)。




「跡部なんかに興味ないって顔やね。めずらしーわぁ。」
「そうなんですか?」
「そうや、アイツはうちで一番の女泣かせやもん。あ、俺氷帝学園の忍足侑士。よろしゅー。」
「あ、どうも。六角中のです。あー、えと卒業しましたけど。」
「ほなら同い年やん。敬語なんていらんよ。」




忍足くんが眼鏡の奥の目を細めてにっこり笑った。
氷帝、そうか今日の試合相手は氷帝学園だったんだ。
ちょっと聞いたことある。確か東京の学校だよね。
遠いのにわざわざご苦労だなぁ。六角テニス部の誰かと仲がいいのかな。
そんなことをぼんやり考えながらコートの方を見ていたら、隣で忍足くんが苦笑しながら口を開いた。




「ホンマ珍しい反応やわ。俺もまだまだやんなぁ。」
「は?何が?」
「いやいや。ちゃんは誰かの応援で来たん?」
「え?えーと…そうなるの、かなぁ。」




忍足くんがコートの方に目を向けながら、まだ笑いを含んだ声で尋ねてきたのにちょっと口ごもる。
そう言えばあたし、何で今日ここに来たんだろう。
応援、て言葉ではどうもしっくりこない。
だってさっき忍足くんも言ってたように、今日はOBの親善試合。お遊びみたいなもの。
あたしだってそれは知ってた。誰が勝つとか負けるとかなんて別に心配してない。
直接の理由としては、佐伯が来て欲しいって言ったから…なんだけど。
それを快諾したあたしの心には何があったんだろう?
うーん…




「あ!ギブアンドテイク?」
「ふ、オモロイ子ぉやね。これは苦労しそうやわ。」
「はい?」
「佐伯を観に来たんちゃうのん?」
「知ってたの?」
「勘や。ずーっとコート見とるし、さっきから六角メンバーが皆してこっち見よるから。すっごぉ心配そうな顔してなぁ」




そう言いながら、忍足くんはカラカラと気にする様子もなく笑い飛ばす。
言われてみれば、コート際にいる黒羽とか一年生部長くんとかがこっちを見てる。
手を上げて挨拶してみたら困ったような顔で笑い返される。
何?あたしやっぱ今日来てたらまずかったのかな。




「…何かあたしここにいちゃいけない感じ?帰った方がいいのかな。」
「気にすることないやん。佐伯の彼女さんなんやろ?」
「何でもわかるのね。」
「おっしーは魔法使いやからねー。何でもお見通しや。」




忍足くんがウィンクして魔法をかけるように人差し指をツイッと動かした。
そして立ち上がりながらポンとあたしの肩を叩くと、スタスタとコートの方に行ってしまった。
…不思議な人。
何でテニス部って普通の人がいないのかな。
そんなことを考えながらその後姿を見送っていたら、忍足くんが不意に振り返ってあたしに向かって何かを放った。




「忘れてた。落としモンやー」




光に一瞬きらっと光って、柔らかな放物線を描いてあたしの手に収まったのは、パールピンクの携帯電話。
…えっ!?あたしの!い、いつの間に!?
びっくりしてとっさに開いたその画面には、編集中の電話帳。
電話番号にメアドに…うわ、写真までしっかり入ってる。
…抜かりないというか、何て言うか。テニス部の男の子ってこういうものなの?
一瞬迷ったけど、とりあえず登録ボタンを押した。
悪い人じゃなさそうだし、これくらいなら別に実害もない。
ぱちんと閉じた携帯を今度こそ鞄の中にしまって、あたしはまたコートの方に視線を戻した。










「お疲れ様でしたー」
「おう、お疲れー。またなー。」




試合が終わって片づけが終わって
着替えの済んだ部員たちが、バラバラと部室から出てきて別れていく。
それを眺めながら、あたしは佐伯が出てくるのを待っていた。
一緒に帰る約束はしてないけど、何となく待ってたかった。
出てきた佐伯になんて言おう。「お疲れさま」?それとも「今日は楽しかった?」かな。
さっき買ったばかりのペットボトルのお茶を弄びながらそんなことを考えていたら、部室から黒羽が出てきた。




。サエ待ってたのか?」
「うん、そう。あ、もしかしてこれからOBで打ち上げかなんかある?」
「あー…うん、まぁ」
「そうなんだ。なら帰るよ。じゃあね。」
「ちょ、お前せめてサエに何か言ってから帰れよ。」
「え、でも。」
「ヘーキヘーキ、もう今部室サエだけだからよ。」
「ちょ、ちょっと」




黒羽に半分押し込まれるように部室に転がり込んだ。
てんてんと足をついたあたしの後ろでドアが閉まる。
佐伯はもうほとんど着替えを済ませて、ちょうど上着を着ていたところだった。
こちらに背を向けたまま、あたしが入ってきても黙々と着替えを続けてる。




「あ、えーと、今日はお疲れ。うん、楽しかったよ。向こうの学校もけっこう強いね!」




沈黙が気になって慌てて口を開いた。
いつもより早口になってた気がする。
よくわからないけど、落ち着かない気持ちになる。
佐伯といると驚いたり気恥ずかしかったりでドキドキすることがよくあるけど、今のドキドキは何だかそれとは違う。
佐伯はこちらを向かない。


あれ?

そこで初めて気づく違和感。
いつも佐伯はあたしが話し始めると、こちらを向いていてくれた気がする。
馴染まない雰囲気にふと気づく。あたしはこの部室に初めて入ったという事実。
当たり前だけど、当たり前じゃない。
付き合い始めてから何度かあった練習試合の後は、佐伯は誰よりも先に部室から出てきていた。
何かが、変だ。




「佐伯?どうかしたの。」
「どうもしないよ。」
「うそだ。何か声が変だよ。何、さっきの試合で怪我でもしたの?」
「そうじゃないよ。平気。」
「なに、怒ってるの?やっぱあたし今日来たらまずかったんじゃない?」
「違うって。あぁごめん、せっかく来てくれたのに今日は送れないんだ。」
「そんなことどうでもいいよ。」



そう言ってあたしの方を見て笑うけど、あたしはその笑顔には騙されない。
嘘がうまくてずるくて、適当に丸め込もうとしてるときの佐伯だ。
キッと佐伯の目を睨むように見上げて、その腕を掴んだ。
何だか知らないけど適当にごまかされるなんてまっぴらだ。
あたしが悪いなら謝るけど、何で佐伯がこんな態度をとるのかわからなければどうにも出来ない。
腕を掴む手に力を込めて、真っ直ぐ目を見つめ返す。
あたしは騙されない。だから言って。




「ねぇ佐伯。言ってくれなきゃわかんないよ。」
「…ホントには無防備すぎるんだよ。」
「え?う、わっ!!」




腕を掴んでた手が思いもかけない方向に引っ張られてびっくりした。
何の準備も出来ず勢いのままつんのめって倒れると思った瞬間体が反転して。
何が何だかわからないうちに押し付けられたあたしは背中に冷たくて硬い感触を感じていたけど、それ以上に唇に触れる熱さに意識を奪われて
動揺する頭でかたく目を閉じたのはほとんど反射だったのだと思う。
行き場を失った酸素が出口を求めて口を薄く開かせるのをついて、佐伯の舌が侵入してくる。
苦しくて身を捩っても思うように体は動かなくて、薄く開けた目で微かに見えた景色であたしは今床を背にしているのだということだけわかった。




「さ、え…っ」




袖を引いても腕を叩いてもビクともしない佐伯に呼びかけたあたしの舌にきつく舌を絡めて、佐伯はなおもキスを深くしてくる。
熱が上がってきている気がする。頭が爆発しそうで意識が朦朧として来そうになる。
こんなキスは知らない。こんな佐伯は知らない。
身を捩るたびに佐伯の手があたしの腕を強く掴む。
怖くて目が開けられなかった。初めて佐伯を怖いと思った。
こわばったあたしの右腕が、一瞬解放されたような気がした次の瞬間




「ひゃっ…!」




ウェスト辺りに感じた感触に背筋がぞわりと粟立った。
酸欠の頭がガンガン鳴りながらそれでもはっきりと知覚する。
服の上じゃない、あたしの手じゃない、これは




「やっ…いや、だっっっ!!」




気づいたら思い切り叫んで佐伯を突き飛ばしていた。
佐伯はあたしに飛ばされるような人じゃないけど、あたしの声に驚いたのかなんなのかとにかくすぐにあたしから離れた。
急いで体を起こしたけれど、佐伯の目を見ることが出来なかった。
まだ背中がゾクゾクして、ガチガチ震える体を抱きしめようと思った自分の腕もガクガクに震えていた。




「なん、で…」




口を開いたら声も震えてて、心臓まで震えてるんじゃないかってくらい息が苦しくて、気づいたらしゃくり上げていた。
あたしのボロボロ零れてくる涙を見て、佐伯がすごく苦しそうな顔をして、あたしに手を伸ばしかけて、止める。




「…ごめん。」
「なん、で…?佐伯は、あた、しが…きら…い、に」
「違うよ。…俺はが好きで好きで…どうしようもないくらい好きで……好きだから…」
「さ、え」
「誰にも、渡したくないんだ。」




あたしを見た瞳が今までに見たことないほど真剣で、それだけいっそう今のあたしには怖く見えた。
あたしだって好きだと思ってた。
でも今はショックで何も言うことが出来ない。
そういうことがあるってわかってるけど、でも今のあたしには無理だ。
怖くて、ショックで、涙が止まらない。




「あたしは、そんなに早く前には進めない!」




床に落ちてた鞄を拾って、転びそうになりながら一目散に走って逃げた。
一度も後ろを振り返ることは出来なかった。










+      +      +      +      + 











それから一度も佐伯にメールも電話もすることなく、4月を迎えた。
入学式でも会わず、クラスも違ってしまったせいで学校で顔を合わせることもない。
どうにかしたいのに、どうしたら良いのかわからないまま時間だけが過ぎて
気づけば桜が枝いっぱいに花をつけて揺れる頃になっていた。










「…それで、俺に連絡くれたんか。」
「うん、ごめんね。突然。」
「いやいや、構へんよ。それは辛いやろうからなぁ。」




忍足くんが優しく笑いかけながらコーヒーをすすった。
突然メールで「相談したいことがある」と言って押しかけたあたしを、嫌な顔せず迎えてくれた忍足くんと一緒に、お互い顔見知りの少なそうなカフェに席を取った。
誰かに相談をしないとずっとこのままだと思っていたけれど、黒羽に話したら確実に脚色されて佐伯に伝わる。
それだけは絶対にダメで、でも女の子の友達と言ってもそういう相談が出来るような子があたしにはいなくて。
思いついたのが忍足くんだった。
忍足くんは長い足を組み替えながら、気まずそうに笑って口を開いた。




「それに…まぁ多分俺にも原因あると思うんよね。」
「そうなの!?」
「佐伯がおかしなったっちゅーのは嫉妬したからやと思うで。あの日、ちゃん俺としゃべっとったやろ。」
「あ、うん…。」
「何となく気付いとったんやけど。オモロイからって放っといたんよ。ごめんなぁ。」




嫉妬…やきもち…?
佐伯が?
初めて言われたそんな言葉に、あたしは明らかに動揺していた。
だって考えたこともなかった。
申し訳ないと思うのと同時に、でもほんの少しだけ嬉しいって思うのは…いけないことだろうか。




「あ、たし謝らないと。」
「せやったらええこと教えたるよ、ちゃん。俺のほんの罪滅ぼし。」
「何?」
「オレンジデーって知っとる?」
「オレンジデー?」




耳慣れない言葉を聞き返したあたしの前に、忍足くんが鞄の中からオレンジを取り出してにっこり笑って見せた。










貰ったばかりのオレンジを手にして、あたしは佐伯の家の前に立っていた。
ドキドキ高鳴る心臓は、それでも何か吹っ切れた緊張感を持ってリズムを刻んでいる。




ちゃんに必要なのは、小さなキッカケやと思うんよ。』




そう、あたしはいつでも何かに背中を押されるまで動き出せない。
気付かないまま過ぎて、なくしたものもたくさんある。
今日という日に背中を押されなければ前に進めない。
でも、今日この日に背中を押されれば、きっとこのベルを鳴らせる。
思い切り手を伸ばして、真っ直ぐベルを押した。
手の中にはオレンジひとつ。
茜色に照らされたその扉を開く鍵は、あたしの心ひとつ。




…」




出て来たのは佐伯本人だった。
久しぶりに見るその顔に心がじんわり温まるのを感じる。
あたしは真っ直ぐ両手を伸ばして、手の中のオレンジを佐伯に差し出した。




「ごめん!」
?」
「ごめんなさい。あたし、何も考えてなくて、自分の気持ちもよくわかってなくて、無意識にきっと佐伯のこと傷つけてたと思う。」




ちゃん、オレンジデーってな、バレンタインとホワイトデーを経てカップルになった恋人同士のイベントやねん。』




「今日はオレンジを持って恋人を訪問する日なんだって、聞いたの。」




『オレンジをあげると、二人の愛が確かなものになるんやて。』




「だから佐伯に、渡したいと思って…あの日のことを謝りたくて。あたしは佐伯が、好きだって、伝えたくて。」




最後の方はホントに顔を今すぐ背けてしまいたいくらいだったけど、最後まで佐伯の目を見て言い切った。
誰に頼まれるのでもなく、あたしの意思として伝えたかった。
何も持たないあたしが佐伯に示せる、ただひとつの本当だったから。




「…やっぱには敵わないな。」




佐伯が照れたような困ったような色を浮かべながら、柔らかく微笑む。
その大きな両手が触れてあたしが差し出したオレンジを、あたしの手ごと包み込む。
あぁこの温かな手のひらが、いつでもあたしを苦しくさせる。
あの冬の日も、あの初春の日も。
あたしは佐伯を何度傷つけたか知れないのに、それでもこの手は温かくあたしに触れて、包み込んでくれる。
泣くのはずるいと思うのに涙が零れて来そうになる。
片方の手のひらがあたしに伸ばされて、指が優しくあたしの涙を掬った。
佐伯は本当に温かくて大きい人だね。
今本当にそれを実感するよ。




「俺もごめんね。」
「ううん、いい。ビックリしたけど、その、ちょっと」
「ちょっと、何?」
「(嬉しかったって言うのは変かも)…あー、うん。」
「?変な




そう言って、やっとふんわり佐伯が微笑んだ。
あたしの手のオレンジを嬉しそうに見つめて、その手に受け取る。




「ありがとう。大事にするから。」
「え、いや。早めに食べた方が良いと思う。今が一番美味しいって」
「そう?ならお言葉に甘えさせてもらおうかな。」




言うが早いか、佐伯があたしの手を掴んで引き寄せた。
そんな展開を全く予想していなかったあたしは、あっさりバランスを崩して佐伯の胸に倒れ込む。
しっかりその両腕に抱き締められたあたしの背中で、カチャリと静かに扉が閉まる。
…は!?な、なな何で!!




「さ、さえ…」
「知ってたんじゃないの?欧米ではオレンジを手に持ってプロポーズしたりするんだよ。」
「えええっ!?ち、違…そんなつもりじゃ!!」
「そうだね、少なくとも今すぐは無理か。俺のためにあと二年は待ってもらうことになるけど、いい?」
「さーえーきー!!違うってば!ホントにそうじゃなくて」
「違うの?……嬉しかったんだけどな、俺は。」
「え?」




不意に腕の力が緩んで、もがいてたあたしの体は簡単に解放される。
驚いて佐伯の顔を仰ぎ見ると、ちょっと悲しそうな瞳をして俯きがちに微笑んだ。
やや伏せられた長い睫毛が頬に濃く影を落としている。
その顔にズキンと胸が痛む。
あ…また、あたしは彼を傷つけたのだろうか。




「ごめ、あのそういう意味でもなくて…。」




どう言ったらいいの。
だってそんな先のことなんてわかんないじゃん。今だっていっぱいいっぱいなのに、そんな約束なんて出来ない。
あたしは嘘が嫌い。その場しのぎの適当な言葉も嫌い。…少なくとも佐伯には言いたくない。
本当の言葉だけしか、言いたくないから。
…あぁもう
わかってよ!!




「うわっ…!」
「先のことなんかわかんないけど今は佐伯が一番好き!!それで我慢しろ!」




もどかしくてどうにもならなくて、佐伯に飛びついて大声でそう叫んだ。
半分自棄だった。これでもわからないなら泣いてやる。
そう思ってたのに




「ふ、くっ、あははは…!」




失礼にも佐伯は声を上げて笑い出した。
何なの何なの何なの!!
ここは笑うところじゃないでしょ!
何でこの人はあたしの予想と全く違うことばっかするの。
もしかして、またからかわれたの!?あたし必死だったのに!!
右足で蹴り飛ばしたら、イテッて言いながらまたあたしを抱き締めた。




「ごめ…そんなに必死になってくれるとは思ってなかったから。」
「…佐伯って不誠実。」
「そんなこと言わないでー、。嬉しかったってば」
「うるさい離せあたしは帰る。」
「帰さないよ。」




突然声のトーンが変わって心臓が跳ねた。
どきどきどきどき。
心臓の音が耳にまで届きそうなくらい、大きくなる。
ゆっくり顔を上げたあたしと佐伯の瞳が真っ直ぐぶつかる。
佐伯の大きな手があたしの腰あたりで組まれて、佐伯とあたしの間に少し空間は出来るけれど
すっぽりあたしを閉じ込めたまま、逃がしてはくれない。




「それは、その、どういう意味ですか。」
「そういう意味。……イヤ?」




柔らかな笑顔のまま、佐伯があたしの目を見つめてくる。
小首をかしげて、伺うように尋ねる。
…先にイヤ?って訊くなんて、ずるい。
だって、そんな顔をされたら言いにくくなるじゃないか。
思わず俯いたあたしの頭の上で、小さく佐伯が笑った。




「ふふ、ごめん。そんなに早くは無理だって、この間言われたばかりだった。」
「佐伯…」
「そんな顔しないで。…決心が揺るぎそうになるじゃん。」
「だって、いいの?」
「俺はのこと大切にしたいから。」
「佐伯」
「送るよ。」




そう言ってあたしを解放した佐伯が、体を翻して扉の方に足を踏み出す。
ドアノブに伸ばされたその腕を思わず引き止めてしまった。
佐伯が驚いたような顔で振り返ったのに俯いた。
心臓がバクバク言っててそのまま顔を上げられない。
でも、これがもし、佐伯の策略だとしても
あたし、は。




?」
「もう少しここにいる。」
「無理しないでいいよ。」
「先に気を持たせたのはあたしだし。…責任取ってくれるんでしょ。」
「ホントにはもう…。」




あたしの頬に大きな佐伯の両手が伸びてきて、包み込む。
触れられたところから痺れるようだ。
いつも温かいその手に安心するのに、今日は一層どきどきしてとまらない。
見上げた佐伯の顔がほんのちょっと困ったようで
でもすぐに嬉しそうに微笑んで、なんだか余計に恥ずかしくなった。


近づいてくる佐伯を感じながら静かに目を閉じる。
この目を閉じている間が、一番どきどきする瞬間。
同時にどうしてか、あたしは佐伯が好きなんだってすごく実感する瞬間。
閉じた目の裏が、もうひとつ暗くなって
佐伯とあたしの距離がゼロになる。
この感覚に慣れてきたのはいつ頃だっただろう。
泣きたくなるくらい嬉しいと思うようになったのは、いつからだったろう。
ゆっくりと離れていく佐伯の、まだ頬に触れたままだった手に手のひらを重ねる。
あたしはいつから、この手を離せなくなってたんだろう。




「ここまでにしよう。」
「佐伯?」
「待てるよ。俺、気は長い方だし?」




本当に柔らかな笑顔で微笑んだ佐伯がそう言って
あたしのおでこに小さくキスをした。
ホントにね。気が長くて愛情深い。
あたしのことずっとずっと待っててくれる。
いくら頑張っても到底その気持ちに追いつけないのに、いつだって笑っていいよって言うの。
そんな優しさがずるくて、前を行く背中が悔しくて
気づいたらあたしの方が夢中になってるんだってこと
知ってる?




「さ、行こう。帰りちょっと遠回りして海の方のスタバに寄っていい?」
「え?」
「俺ももうちょっとと一緒にいたい。」
「なら」
「だーめ。さすがにうちに上がったら手を出さないって、約束しきれないからさ。」




悪戯っぽく笑った佐伯があたしの手を取って、玄関の扉を開ける。
並んで歩き出したあたしたちの間を流れる風が、公園の桜の木を揺らして花びらを降らせる。
もう満開を過ぎて、可愛いきみどりの葉っぱをつけた桜が、最後の花をあたしたちの上に散らせる。
はらはらはらはら
思わず足を止めて、その花が降ってくるのを二人で見上げていた。
そう言えば、杏の花も梅の花も一緒に見たね。
花みずきも紫陽花も一緒に見られたらいいね。
こうやって手を繋いで、ゆっくり一緒に歩いて




「来月の今頃はどんな花が咲くかな?」




あんまりにも絶妙のタイミングでそう言った佐伯にびっくりして、思わず隣を見上げてしまった。
あたしの視線を感じたのか、こっちを向いた佐伯がちょっと不思議そうな顔をして、そして笑った。




「あぁ、そうか。」
?」




好きだって言われて一ヵ月。
好きだって言って二週間。
少しずつ少しずつ、佐伯の近くにいることに慣れてきて
死ぬほどドキドキしたり、泣きそうになったり苦しくなったりしながらも、
それを心地良いと感じられるようになったのはきっと
佐伯が、あたしが、お互いの存在全てを受け入れるようになってる、ということ。
あなたがあたしをわかろうとしてくれて、あたしもあなたを知りたいと思っている。
気づかなかった。こんなにこの人はあたしの近くにいたなんて。




「どうしたの、?」
「ううん。…虎次郎のこと好きだなって思っただけ。」




あたしがその言葉を口にしたときの、あなたの顔。
きっと一生忘れられないと思うな。
繋いだ手の力がほんの少しだけ強くなって、照れくさそうに顔を上げた虎次郎が子供みたいに笑っておでこをコツンて当ててくる。
重なる前髪がくすぐったくて、お腹の辺りからクスクス笑いが込み上げてきてどうしようもない。
今初めて、ほんの少しだけ、虎次郎より前に立てた気がする。




「来月の今頃も一緒にいようね。」




あたしの言葉に答える代わりに、花びらみたいなキスが降って来た。




…end



【反省と言うよりむしろ言い訳】


バレンタイン、ホワイトデーと進展してきた二人だから、オレンジデーに相応しいかもと、久しぶりに続編を。
佐伯さんの我慢強さが微笑ましくて、何だか書いていて楽しいです。

2006.04.14