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いつでも乾ききっているこの心 第五交響曲ハ短調 片手にラケットとタオルを提げて、コンクリートの通路を少し早足で歩く。 初夏にしては眩しすぎる日差しが肌を容赦なく焼く。 パーカーも持ってくればよかったかな。 ユニフォームから出た腕がジリジリと焼け付くのがわかる。 視線の先の水飲み場までの数メートルのキョリがもどかしい。 陸に上がって干上がった魚みたい。 水を求めて止まない。 蛇口をひねって思いきり頭から水を被った。 …ぬるい。 思ったよりも水の温度が高くて少し顔を顰める。 それでもずっと流していれば少しは冷たくなってきて 顔を洗って頭を振ると、風が吹いてきて随分とサッパリした。 タオルで適当に頭を拭いていたら、少し風の流れが変わった。 振り向くと、うちの学校の制服を着た女の子が立っていた。 肩に付くか付かないかのボブカットで、あっさりした顔だち。 見たことある気がする…三年の子だろうか。練習試合なのに応援に来る子もいるんだな。 …いや、応援とは違うのか。 込み上げてくる冷笑を抑えるように、作り笑いを浮かべて彼女の顔を見返す。 「何?」 「あ、あの佐伯くん。私、二組の…」 「ときどき練習見に来てる子だね。試合観に来てくれてたんだ。」 微かに彼女の顔が明るくなる。 それからちょっと俯きがちに、今日の試合の感想みたいなことを話し始めた。 ときどき何かを伺うように俺の顔を見る。 その先はなんとなくわかってたけど知らないフリをする。 わざわざ言い易い状況を作ってやるほど俺も人が良いわけじゃない。 でも延々と続く話に耳を傾けるほど暇でもない。 タオルを肩にかけると、水道の傍らに立てかけておいたラケットを拾い上げた。 「それ、うちの部員にも聞かせてやってよ。きっと喜ぶしさ。」 「あ、待って佐伯くん!あの、私、ずっと佐伯くんのことが好きだったの!だから…私と付き合ってください…。」 半分勢いのように、一気にまくし立てた。 語尾の方は自信なさげに消えかかって、わずかに空気を振るわせるだけ。 俺は名前も知らないその子をもう一度返り見て、薄く微笑みかえした。 「…運命って信じる?」 「え?運命?」 「ベートーベンの『第五』の冒頭のテーマ聞いたことある?運命が扉を叩くって。俺はそんなことがきっとあると思ってる。」 心の扉を運命が叩く。 いつか胸の琴線を震わせる人が現れる。 まるで夢を見る女の子みたいだって笑う? でも、そんな可能性が万に一つでもあるなら、俺はそれを信じてみたいと思うクチだ。 「だからそれまでは彼女は作らないって決めてるんだ。ごめんね。」 呆気に取られたような顔をしたその子を置いて、俺はスタスタとチームメイトがいる方へ向かって歩き出した。 今までにああやって告白されたことは何度かある。 それはもちろん嬉しいことだとは思うけど、心に何の感動もない。 相手の女の子を愛しいと感じる気持ちも湧かない。 非道だと言われるかもしれないけど、俺は自分の気持ちに何より正直でありたい。 「見ーちゃった!また告られたんですかー!サエさん。」 「わざわざこんな他校での練習試合にまで来るなんて、まったく色男は辛いよなぁ?」 「サエばっかりずるいのね。」 「…皆して覗き見なんて、いい趣味してるね。」 ぞろぞろと校舎の影から出てきた面子に、半分呆れながらそう言った。 まぁ皆の出歯亀なんて今に始まったことじゃないか。 「でもすっごい可愛い子だったじゃないですかー!何で振っちゃうんすかー!」 「そうだった?あんまり顔よく見てなかったからなぁ。」 「うっわひっど!サエさんて結構キツイのに何故かモテますよね。」 「この外見に騙されてんじゃねーの?」 「言ってくれるね。」 「理想、高いんですか?」 「どうかな。確かに確率論で言えば相当難しい相手かもね。」 なおも食い下がる剣太郎を適当にあしらいながらコート脇に戻って。 バッグにタオルを押し込んで、控え室に向かう。 今日の試合はもう終わりだから、早いとこ着替えて、後は家に帰ってちょっとのんびりするかな。 「じゃあーどういう子が来たらオッケーするんですかー?」 「まだ言ってる…そんなに気になるの?剣太郎。」 「だってサエさん選り取りみどりなのに全然誰にも感心持たないし。」 「確かにな。」 「どういう子がタイプなのね?」 「そうだなぁ…独占欲が強い子?縛られてみたいし。それに、どうせなら縛り返したくなるくらいの子が良いよね。」 「え…っ?」 「さ、早く支度して帰ろう。」 唖然としたようにに立ちつくすメンバーを残して、俺は控え室に入っていった。 ガタン、ガタンと不規則に電車が音を立てながら走っていく。 七分どおり席が埋まった車内で、俺はベンチ型の席の一番ドア側に座って文庫本を捲ってた。 どうせ夏休みの宿題には読書感想文が付いて来るに違いないのだから、時間のあるときに読んでおこうと持ち歩いてる。 本屋のカバーのかかったそれは、味気ない表紙とは裏腹にとても興味深い内容で思わずのめりこむ。 程よく冷房の効いた電車は読書環境には最適で、環状線だったならずっと乗っていたいくらいだ。 どれくらい経っただろうか。 俺の最寄り駅まであと二・三駅のところでバラバラと人が降りていって、入れ違いに揃いの制服を着た女の子たちが大勢乗ってきた。 どの子も手に大きな鞄を持っている。 その中にボールの入ったバッグを抱えてる子がいるから、きっとバレー部かバスケ部だろう。 俺の向かいのベンチ席にそろって座って、何やら今日の試合の話をしている。 本に目を落としたまま顔は上げずに、そんな話を何気なく聞いていた。 と、急に真ん中あたりから波が引くように話がおさまって行って、代わりに小さなささやき声で交わすざわめきが聞こえる。 下を向いた俺の目の端に、こちらをときどき伺うような顔がいくつか見えた。 …なるほど、今度は俺の値踏みをしているわけか。 さっきチラッと見えた制服から、何駅か隣の女子校であることはわかってた。 女子校の女の子って、どこの誰がどうとかっていう話がすごく好きらしい。 窓の外を見るフリをして、一瞬で全員の顔に視線を滑らせる。 まだ何かウキウキしたように頭を寄せ合って話し合ってるのが見える。 話の中に、わずかに俺の名前が聞き取れた。 剣太郎なら大喜びするところだろうけど、試合後の気だるさも手伝って今の俺にはすごくうざったい。 溜息混じりに本に目を戻しかけて、ちょうど俺の正面に座ってる女の子に目が止まった。 友達の話に軽く相槌を打ちながら、その目はどこか違うところを彷徨って しばらくすると銀の手すりに頭を預けて溜息をついた。 その頼りなさげな様子にも、どこか気にかかるものはあったのだけど 隣に座ってる友達が何か声をかけて、頷いて笑ったその瞬間。 コトリ 透きとおった瞳にわずかに見えた光に囚われた。 コトリ 音を立てて動き出す心 それは理屈じゃない、本物のインスピレーション。 あの子、だ。 気付いた瞬間から歯車は回り出す。 色を付けて動き出す時間、世界。 彼女と俺の世界はまったく接点がない。 あれはこの手を伸ばさなきゃ捕まえられない。 それなのに、ただ手をこまねいて見ているだけなんて、どうして出来る? 賭 ケ ヲ シ テ ミ ヨ ウ カ ほんのチラッとだけ見えた光は、重く降りたまぶたに閉ざされる。 顔を覆う影は誰かの助けを必要としていないだろうか。 お節介でも自惚れでもいい。それは、俺に下された使命と考えて …あそこから彼女を攫ってみよう。 もし彼女が俺よりも後にこの電車を降りるなら 銀の手すりに預けた頭 不快そうに顰めた顔 もう一度その光をこちらに向けたい。 小さなトラップを仕掛ける。 切符を取り出すフリをして、その足元に深緑の生徒手帳を落とす。 パサリと乾いた音を立てて着地した。 こんな小さな音にその目を開かせることが出来るなら 「あの…!落としましたよ!」 か細く届く声に知らん顔をして 駅のホームの雑踏にまぎれる。 鳴り響く発車のベル 小さな偶然にトラップを織り込んで。 もしこんな偶然に彼女を絡め取ることが出来るなら その力は既に彼女にも運命を感じさせてる。 風を巻き上げて電車が走り去っていく。 一歩踏み出すごとに、鼓動が高鳴って、運命の足音に耳を済ませてる。 どんな相手よりも今日は手ごたえを感じてる。 振り向いて君がいたら このゲームは俺のものだ。 …end 【反省と言うよりむしろ言い訳】 第五交響曲ハ短調=『運命』 『途中下車』の男の子sideです。 サエはあの涼しい顔の裏で色々と黒いことを考えてるに違いない。 でも結構恋愛には夢を見る方だと良い。 そして夢を必ず現実にする、そういうひとだと思います。
2005.08.08
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