逃げ出したくなる
この8月31日という日が持つ、魔力から










Up to August 31st







この夏買った真新しいミュールをつっかけて、あたしは浜辺を歩いていた。
手には、やっぱり今年買ったばかりのレース付きの日傘。
海にはサーファーの他はあまり人影もなく、そんなとこからも夏休みの終わりを感じさせる。


1年中でいちばんきらいな日。
8月31日をあたしは持て余してる。


足元が掬われるような、果てしない喪失感。
後ろから追い立てられるような焦燥感。
旅行に出かける前の何か忘れてるような感じと、旅行が終わる時の寂しさが一緒にやってくる。そんな感じ。
去年は友達と1日遊んで、無性に大切な時間を浪費した気分になった。
でも1人で家にいても何かをし忘れてる気がして落ち着かない。
だから逃げ出してきた。
どこへともなく歩いた足は、気付けば通いなれた道を海へと向かっていた。


さくさく音を立てて、足が焼けた砂浜に沈むのを払いながら歩いていたら、不意に後ろから名前を呼ばれた。




「佐伯?」
「やっぱり、




終業式以来のクラスメイトはニコニコ笑いながら、昨日の続きのようにおはようと言った。
その手には、いつも当たり前のように持っていたラケットはなく。
服装も随分ラフで、ちょっと近所に散歩に出た、という風情だ。
…ちょっと想像してた「佐伯の休日」とは違うかも。
とはいってもあたしは佐伯の私服を見るのはこれが2回目か3回目くらいで、遠足やら修学旅行やらを除けば初めてと言っていい。
けど、この有名人は1歩あるけば噂が10個は出来るような人で、お喋り好きな友達から浴びるように聞かされれば、まるでそれが見てきたことのように錯覚されるのは許して欲しいところ。
それは芸能人を見るような目。
正直ものすごく遠いひとだと思ってた。


あたしの脳内で相当勝手な佐伯像が作っては壊されていることなど知りもせず、佐伯はやっぱりニコニコ話かけてくる。




「散歩?」
「うん、まぁ…。佐伯も?」
「んー、放浪に近いかも」
「は?」
「部活が終わったらさ、夏休みって何してたかなって思って。」




時間の使い方忘れちゃったみたい。
そう言う言葉の中に、ほんの少し苦笑いが混じる。
…テニス部が全国大会に行くと聞いたのは、いつだっけ。




「何かしなきゃなーって気はしてるんだ。何かやり忘れたような、大事なことがあったような、そんな気がして。」
「あ、それわかる」
「ホント?」
「あたしも毎年そうだもん。8月31日の魔力の所為だよ、それ」
「そうか、今日8月31日だっけ。忘れてたな、そんなこと」




大きく伸びをして、明日から学校かーと吐き出すように言う。
どれほどがむしゃらに走ったら、夏休みの終わりを忘れることが出来るんだろう。
きっと佐伯はこれまで感じたことがなかったんだろうな。夏の終わりなんて。




「それで何となく焦ってたのか、俺」
「焦ってたんだ、佐伯でも」
「そうだよ。で、とりあえず歩いて海に来てみたんだけど…正解だったかな」
「え?」
に会えた」




こういうことをサラッと言えるから、彼は1歩進んで10個噂を作る人なのだと思う。
さっき崩したばかりの佐伯像を再びボンドで貼り付けながら、あたしはとりあえず笑ってみた。
というか、普通に顔が緩んでしまった。何か、嬉しくて




、何してた?夏休み」
「え、別に…普通だよ。補習出て、プール行って、買い物して、田舎のおばあちゃんち行って、とか」




口に出して言うほどもない、ありふれた夏休み。
なのに佐伯は嬉しそうに聞いている。
佐伯は?と聞き返したら、「ほとんどテニス」という、期待を裏切らない返事が返ってきた。




「えらいなぁ。大会もかなり勝ち上がったんでしょ?あたしそういうのないし、羨ましい。」
「ありがとう。でも、俺にはそれが普通なんだけどね」
「それがまたすごいなぁ。あたし絶対遊ばないと生きていけないし」
「俺だって別に毎日テニスばっかりしてたわけじゃないよ」




すごいすごいを連発するあたしに、少し居心地悪そうに佐伯が言った。
でも、部活に打ち込んでた佐伯と、何となく過ごしてたあたしとじゃ正直時間の密度が違うわけで
それがそのまま積み重なれば、夏休みのレベルだって天地ほどの開きが出てきそう




「同じ40日なのに、全く違う次元を生きてる感じだね、あたしたち」




今までそれなりに充実して過ごしてきた時間が、佐伯のそれと比べると本当につまらないものに思えて。
逆光で眩しい佐伯の顔が、更にまぶしく遠く感じた。




「でも、今日は重なったね」




佐伯が本当に嬉しそうにあたしに笑いかけて
笑顔と一緒に、ストンとその言葉が心に落ちてくる。




「少し歩かない?手、貸して」
「どうしたの。急に」
と手をつないで、アイスクリームを食べに行きたい」
「は?」
「それが俺のやり残したことで、今いちばんしたいこと」




ほら、と当たり前のように差し出してきた右手。
きっと彼の人生で、この手を取らない罰当たりな人はいなかったんだろう。
彼の(手を取らなかった)初めての女、というある意味名誉な称号は魅力的だけど
それ以上に魅力的な誘惑に勝てるわけなかった。


右手に日傘。左手に佐伯の手。
熱い砂浜に沈む足を高く上げて、さっきよりも足取りが軽い。
佐伯の好きなフレーバーを知る頃には、新しい佐伯像の土台石が固まるかな。
その上にはどんな佐伯像が積みあがるだろう。
この秋の自由研究の課題にしよう。


8月31日の魔力から抜け出して、初めて秋の始まりを見つけた気がした。




…end



【反省と言うよりむしろ言い訳】


学生時代は、無性に寂しくなってましたね。8月31日。
夏休みが9月の終わりまであっても寂寥が胸を過ぎる感じ。
今年は噛み締める余裕もありませんでした(笑)
あれは学生の特権なのね。

2009.08.31