茂みの中に浮かび上がった白い顔は、次に見返した時には消えてしまっていた。
けれどその一瞬で、俺は誰だか気付いていた。


たった一瞬で瞼に焼き付いた表情は今にも涙に翳りそうで、そうさせてる原因が今目の前にいる奴だと言うことも解ってた。
それなのに、何故俺が其処へ行かなければならないと感じたのか。
その瞳が呼んでいたと思うほか無かった。









P u Z z L E ...6







「5月19日 月曜日、お昼の放送です」




聞き覚えのある声に引き戻されるように、薄っすらと目を開けた。
知らず転寝をしていたらしい。ソファの足元に読みかけの資料が散らばっている。
体を起こすと、手早く拾い集めて机の上に放り投げた。
締め切った生徒会室の扉の向こうから、微かに昼休みの喧騒が聞こえてくる。
机の上の飲みかけのコーヒーと昼飯の入った紙袋を引き寄せて、ソファに座り直した。
スピーカーからは、俺を起こした放送の声が柔らかなトーンで今週の予定を伝えている。




初めてその声に気付いたのはいつだったか。
耳触りの良い昼の放送の声に、ふと気を留めた。
凛とした声と見事な割舌。
甘ったれた喋り方をする女の多い今日日珍しく、清水が流れるような綺麗な話し方だった。
その声がする日は、BGMで流れてくる曲も俺好みで
ただそれだけのことだったが、不思議と午後は気分がよくなった。


それまで聞き流していた昼の放送も、その声のする時には耳が音を拾うようになった。
その声が聞こえると、微かに心が温まるような気分になって
いつしか、その声を待ち侘びるようになっていた。
けれど、その声の持ち主が誰か、つきとめようとは思わなかった。
甘えない、媚びない、凛としたその声と話し方。
それを現実の誰かと結びつけることに抵抗があった。
謎は謎のままに、いっそその神秘性をさえ愛するほどに


…恋をしていた。




けれど、知らないままでいるつもりだったその声の主を、思いがけず知ることになった。
自分が思っていたよりロマンチストだったことに軽く苦笑し、現実は理想のように上手く行かないことに改めて気付き。
微かな失望を覚えつつも、声の主が確かな存在として自分の前に現れたことが不幸だったのか、今でも判じかねている。




「……緑化委員会からのお知らせでした。次の曲は…」




……思ったより元気そうだな。
空になった袋をくしゃりと潰して天井を見上げる。
伸びをして背もたれに体を投げ出し、深く息を吐いた。
流れてくる心地良いアメリカンポップスに耳を傾けながら、疲れが溶けていくような感覚に目を閉じた。




「跡部、ここだったの」




ノックもなしに開けられた扉から、突然投げられた媚びるような声。
無遠慮に近寄ってくる足音に目を開けると、長い茶髪をかき上げながら女が婀娜っぽい笑みを浮かべて立っていた。
遊びでいいからと先月誘ってきた女。一度だけ寝たことを勘違いしてるのか。
その目が何を期待しているのかありありと語っている。
鼻をつく濃い香水と化粧の臭い。
吐き気がした。
俺に触れようとする腕をかわして立ち上がると、鞄を取って部屋を出た。
女が何か言い募る言葉を、耳にすら入れたくなかった。
廊下を苛々と早足で歩きながら、ムシャクシャする気持ちが治まらない。
神聖な場所に土足で上がり込まれて、滅茶苦茶に荒らされたような腹立たしさが消えない。
耳の奥に遠く追いやられた声は、スピーカーからももう聞こえなくなっていた。










「一昨日、練習試合の打診があった。月末の日曜だが」
「…月末の日曜、ですか。」




放課後呼び出された音楽準備室で、監督が示したメモを見ながら思わず眉を顰めた。
この日は、正レギュラーは高等部での合同強化練習を予定している。
まさか忘れた訳じゃ無いだろうと訝ったが、そんな俺の考えを先回りするように監督が口を開く。




「準レギュラーに実戦経験が必要だ。そのつもりで回答を用意しているがお前の意見も聞こう。」
「監督の意見に同意です。」




目前に控えた地区予選や都大会は準レギュラーが中心。今実戦経験を積むべきなのは当然奴らだ。
正レギュラーは既に関東大会を視野に入れての調整がなされている。
もちろん実戦的な試合が効果的でないとは言わないが、今の調整の進み具合から考えるともう少し後の方が望ましい。
監督も当然それを考えて、準レギュラーでこの練習試合を受けると言ったのだろう。




「…では正レギュラーは予定通りのメニューを言い渡す。」
「はい。…監督、参考までに、相手はどこの学校なんですか。」
「千葉の六角中学だ。他に質問は。」
「特にありません。」
「ご苦労、行ってよし。」




挨拶をして音楽準備室を出ると、足早に昇降口に向かった。
…千葉の六角か。古豪の誉れ高い伝統校だな。
向こうから申し込んで来たと言うから、当然こちらまで出向いて来るのだろう。
興味はあるが、いずれ関東で会う。今はそこへピークを持って行くよう調整するだけだ。




「跡部、待って。」




昇降口を出た所で不意に呼び止められる。
声のしたほうを振り返ると、昼間の女が下駄箱の陰から姿を現した。
甦った不快感に眉を顰めると、無視してそのまま歩き出そうとしたが、駆け寄ってきた女が馴れ馴れしく肩に手を掛けて引き止める。




「連休中に、H組のさんと車で帰ったって本当?」




突然そいつが口にした名前に、ほんの僅かに目を瞠る。
それに確信を得たのか手にますます力を込めて、女が擦り寄ってくる。




「見た子がいるのよ。車に乗るところ。あの子、何なの?」
「放せ」
「私不安なの、ねぇ、跡部!!何であんな女と一緒に車に乗ってたの!?」




苛立ちに任せ乱暴に腕を振り払うと、衝撃に尻餅を着いたそいつの顔を冷ややかに見下した。
電気が走ったようにビクリと肩を震わせ、目に怯えの色が浮かぶ。




「勘違いすんな。てめぇに俺の行動をとやかく言われる筋合はねぇ。」




踵を返すと、不快感の残る肩を手で払って鞄を担ぎなおす。
それ以上追いすがる様子もないそいつを放って、歩き出した。


そろそろランニングも終わって、基礎練習が始まってる頃だろうか。
昼間より雲が広がってきた空を見上げて眉を顰める。
今日は降らない筈だと思いながら、それでもコートへ向かう足を速めた。




「くっ、こ、の、やろぉぉ…!!」




刹那、不穏な声が耳に届いて、思わず足を止めた。
声のした方へ足を向けると、自転車置き場の脇で地べたに這いつくばっている女がいた。
誰もいないとは言え、スカートの裾も構わず足を踏ん張ったり投げ出したりするその女に、驚きを通り越して呆れた。
…こいつ、自分が女だって自覚あんのか?


そいつが只の変な女なら そのまま無視して通り過ぎただろうが
よく通る明るいその声に聞き覚えがあった。




「何やってんだてめえ。」
「うわっ!吃驚した!!」




言葉通りビクッと肩を大きく震わせて、その拍子に後ろにひっくり返って尻餅をついた。
それ以上倒れなかったのは、俺の足にぶつかったから。…と言うより俺が足で支えたからだ。
俺の足に寄りかかったまま首を逸らしてちょうどかち合った顔の真ん中、限界点まで見開かれた瞳が俺を見上げた。




「跡部?こんなとこで会うなんて奇遇だね。」




他にいくらでも言うことはあるだろうに、間の抜けたことを言う奴だ。
よっこらしょと手をついて立ち上がると、少しは気にしたようにスカートを直して汚れを叩いた。




「お前こそ、チャリ通じゃなかっただろ。」
「うわ、跡部がチャリって言うの意外!!」




そんなことがそれほど意外だったのか、はコロコロと笑いを零した。
僅かに眉間の皺を濃くした俺を見上げて、冗談だと言いながら傍らの自転車に目を向ける。




「一時期バスだったけど、やっぱ自転車のが時間短縮できるし、寄り道にも楽でしょ。またチャリ通にしたの。」




迂闊に口にしたことを少し悔やんだ。
こいつは忍足と一緒に帰るためにバス通にしていたのだ。
そして、別れたからもうバス通にする理由もなくなった。
口にこそ出さないが、つまりはそういうことだと解ってしまった。
けれど当の本人は全く気にした様子もない。
もう、すっかり吹っ切ったということなのか。
俺に向ける明るい表情に、無理矢理作った翳りは感じられなかった。




「で、お前は何してたんだよ。」
「あ、側溝に鍵を落としちゃって。この蓋がなかなか外れなくてさ」




そう言いながらまたどっこいしょと側溝の側に屈んで、蓋の格子に手をかけた。
よく見ればその両手の指は、どれも真っ赤に擦れた跡がついている。
こいつ、こんな細ぇ指で側溝の蓋を持ち上げようとしてんのか。
色気の欠片もない、蛙のように足を踏ん張っていた後姿を思い出して溜め息を零した。
すっかり腰を下ろしたバカの横に廻り込んで側溝の中を覗き見る。
カラカラに干上がった土の上、マスコットのキーホルダーがついた銀の鍵が見えた。
…フン、こんなものなら楽勝だ。




「退いてろ、取ってやる。」
「えっ、いいよ!これすっごく重いし。テニスする大事な手でしょ、怪我したら困るじゃん!」
「アーン?俺様を誰だと思ってる。大体こういうのは頭を使うんだよ。」




踏ん張ったまま立ち上がろうとしないバカを両脇から腕を差し入れて立ち上がらせると、後ろに退かせた。
手近な木の枝を拾い上げて、軽くしならせる。
撓んだ枝先は、手首の返し一つで思い通りに動く。
無骨な枝は引っ掛かりが良い。俺の手にかかれば即席の釣竿代わり。
狙いを定め、側溝の格子の隙間から差し入れて引き上げれば、鍵は軽々と跳ね上がって手の中に収まった。




「弘法は筆を選ばねーんだよ。解ったかタコ。」
「…す、すごい」




驚いたように目を丸くするに鍵を投げてやると、あたふたしながら何とか両手でキャッチした。
ったく、鈍くせぇやつ。
けれど鍵を握り締めた手をそのままに、俺の方へパッと満面の笑顔を向ける。
その顔が圧倒される程に無防備で面食らってしまう。




「ありがと。 何か最近、跡部に助けてもらってばっかりだね。」




その言葉に俺自身驚かされる。
確かにここ最近俺はこいつが困ってる場面に遭遇しては、ついそれに手を貸すようなことをしていたのに気付く。
こいつに恩を売ったところで何のメリットも無いのに、眉間に皺を寄せ溜め息を吐きつつも何となく見捨てて置けなかった。




「テメェが鈍臭いからだろ。」




思考をシャットダウンするように言い切った。
気紛れだ。
それ以外に理由を見出したくなかった。




「じゃあ、ありがとね。」
「…お前、そんなんでチャリ乗ってんのかよ。」
「は?」




俺の前で豪快に自転車に跨ったを見て思わずそう口にしてしまった。
座ったその姿勢では、ありえないほど短く見えるスカートの裾。
そこから覗く色白の脚は絶対行き交う奴等の視線を集めているに違いない。
大体さっきの這いつくばった蛙足もいくら色気が無いったってとりあえずこいつは女の形をしてんだから見てる男が間違って欲情しねぇとも限らないだろうが。
それを全く気にかけない無防備さに、終いには何故か苛々してくる。




「水玉見えてんぞ」
「ええええ!!」




ボワッと顔を真っ赤に染めると、慌ててスカートを引っ張っている。
実際はさっき跨った時に見えただけで今は別に見えていなかったのだけど、そんなことには気付く余裕もないようで、
必死になって隠そうとする姿に一応こいつにも人並みの羞恥心は備わっているのかと安心した。


…安心?
馬鹿らしい、何で俺が。




「って言うか何見てんのよ、この変態!」
「あぁ?見たくも無いモン無理に見せられたこっちの身にもなりやがれ。慰謝料貰っても良いくらいだ。
 見せたくねぇならジャージでも穿いてろバーカ。」
「きぃぃぃっ!!言われなくてもそうするわよ馬鹿〜!!」




売り言葉に買い言葉。それでもジャージを穿いて帰ると言ったことに僅かに口の端を上げた。
今度は少しスカートの裾を気にしたように自転車を降りる。
そこまでは思惑通りで、予想通りだった。しかし


…まさか、俺の見てるその前でジャージを穿き出すとは思いも寄らなかった。


こいつ、ホントに自分が女だって自覚ねぇのか?
それとも俺を男だと思っていないのか。
無防備にも程がある。
いや、これは無防備とか言うレベルの話じゃない。




「女じゃねぇな、お前。」




こういうところは本当に落胆を禁じ得ない。
聞こえるように溜め息を吐いて眉間に皺を寄せた俺に、が何か言いかけて口を噤む。
視線が彷徨いながらどんどん下降し、細い指先がスカートの端を握り締めた。
…何だ?
口を開きかけたところに、チャイムが鳴り響いた。
お互いに弾かれたように顔を上げて、条件反射のように意味もなく時計を探す。
タイミングを逸した今、もうこいつと話すこともない。
いい加減コートに向かおうと踵を返して歩き始めた俺の背中を、よく通る声が呼び止める。




「あ、跡部!」
「あ?」
「明日のリクエストは?」




一瞬何を言われたのか解らず、しかしすぐに昼の放送の曲のことを言っているのだと気付く。
そう言えばは忍足と付き合い始める前から、時々こんな風に忍足に訊いていた。
生徒からのリクエストはいくらでもあるのに、こっそり一曲だけ忍足のリクエストを混ぜて。
それがどういう意味かなんて、気付かなかったのは忍足くらいだ。




「夕星の歌」
「わかった、約束する!」




言うだけ言って手を振ると、満面の笑顔で自転車に乗って門を走り抜けて行く。
俺はその場で立ち止まったまま、クッと笑いを零した。
これも、あいつなりの礼のつもりなのだろう。
両手をジャージのポケットに突っ込んで今度こそコートへと歩きながら、明日の昼休みがほんの少しだけ楽しみになった。










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「なぁ、あいつさっきからこっち見てないか?」




向日がコート脇でボトルのストローを咥えたままポソリと呟いた。
視線の先、高等部の正門から正面玄関に伸びる緩やかなスロープの傍らに人影が見える。
淡い色の髪に白いジャージ、ハーフパンツ。年は俺達とそう変わらないだろう。
ちょうどキリの良い所で練習の手を止めて見遣ると、確かにジッとこちらを窺っているようだ。


休日の今日、高等部には部活に勤しむ生徒の姿がいくらもある。
バスケ部は他校と交流試合だと聞いているし、他校生らしき人物がここにいてもおかしくはないが
明らかにその目は真っ直ぐ俺たち、テニス部のほうへ向いていた。
その異質さに、少しずつ他のレギュラーメンバー等も気付いて騒ぎ始める。




「何だアレ?六角との練習試合を観に来た他校の偵察か?」
「まさか。だって練習試合は中等部の方でやってるじゃないですか。」
「だよなぁ。でもうちの連中じゃないし、高等部って感じもしないよな。」
「ああもジッと見てると不気味じゃねぇ?」




不意にそいつがこちらへと歩み寄ってくる。
近づくにつれ服装や表情がはっきりと見えるようになり、ジャージの下に鮮やかな赤のユニフォームを着ているのが解った。
襟元に刻まれた刺繍は、六角形。
フェンスを境に向き合ったその瞳は、薄く微笑みを湛えているがとても鋭い。
足を止めて暫くこちらを見ていたそいつが、ゆっくりと口を開いた。




「こんなところに居るとは、ね。」
「あ?」
「同じ土俵にすら上がろうとしないなんて、舐められたものだ。」




異様なほど、穏やかな声だった。
フッと鼻で嘲るような笑いを零したそいつに、隣の向日が気色ばむ。




「いきなりやって来て誰だよテメェ!六角か?」
「佐伯虎次郎。」
「練習試合のことでケチ付けに来たのか?
 うちは地区大会は準レギュで行くって決まってんだよ!そっちとは事情がちげーんだ!」
「…待て」




佐伯が着ているその白いジャージに、記憶が一気に呼び戻される。
半月前のあの夜、見たこともない白いジャージを羽織っていた
薄暗い中、車のライトに照らされて一瞬だけ見えた胸元のKとSの文字
あのジャージは、まさか


視線がかち合った俺を見て、佐伯が薄っすら微笑む。
瞬間、瞬きと同時に佐伯がビリッと空気を震わせるような鋭い瞳を現した。




「油断してると足元掬われるぜ。」




ひとことそう言うと、踵を返して立ち去って行く。
いつの間にかそこにいた全員が成り行きを見守っていたようだ。
佐伯が立ち去った後も、どこか落ち着かない様子でざわめいている。
どいつもこいつもあの目に圧倒されたのか、声が上擦って浮き足立っている。
…チッ、何てザマだ。




「あれが佐伯なん?なんや聞いてたイメージとちゃうなぁ。もっとソフトで飄々とした奴やと思ってたわ。」




まぁ二枚目っちゅーのは当たってたけどな等と、忍足が暢気なことをぼやく。
正体の判らない物が意識のどこかに引っ掛かって、鎌首を擡げる。




「…おい、向日。ちょっと向こうの様子見て来い」
「はぁ!?何で俺なんだよ!つか何かあったらこっち呼びに来んだろ…」
「いいから行け」
「ちぇ、わーったよ、行ってくる。」




ヒョイと軽々フェンスを越えると、さして急ぐような様子も見せず中等部の方向へ歩いて行く。
その後姿を見ながら、変に胸騒ぎがするのを止められない。




その後、慌てて戻ってきた向日から準レギュラー全滅の報を聞かされた。
六角は既に帰った後で、向日自身は準レギュラー100人斬りをやってのけたという奴の姿は確認していないと言う。
ただ試合した奴等の話では、途轍もなく長いラケットを持った髪の長い男らしく、佐伯でないことは確かなようだ。
六角メンバーは皆準レギュラーを充てられたことを、相当腹に据えかねている様子だったと付け加え、今日準レギュラー代表に据えた奴は悔しそうに下がっていく。
けれどその報告を受けても、まだ何かが燻って落ち着かせない。


佐伯が最後に見せた斬り付けるような瞳が、脳裏に焼き付いて
何かを抉り出そうとしているようで。




...to be continued



【反省と言うよりむしろ言い訳】


跡部が素直でメロメロなのは当家の標準装備です。

2008.11.06